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天井が見える。見たことのない、茜色の天井。蛍光灯は消えていた。夕方である事は理解できた。
「…気が付いた?」
「…あ、れ…?」白衣を着た女性がそこにいた。中年の、物腰の穏やかな人だった。
「…えーと…」俺は状況がよく理解出来てない。
「落ち着いて。そのままでいいから聞いて」優しく諭すように言う。
「…はい」俺は従った。
「気分はどう? 気持ち悪いとか、苦しいとか」
「…特には…ないです」
「そう? じゃあ、私の手を握ってみて」
「…はい」俺は出された手を握る。
「少し力を入れてみて」
「はい」その手は暖かかった。言われた通り、少し力を入れてみる。
「…うん。じゃ、起き上がれる?」
「…はい、…よっ…と」俺は上半身を起こす。
「どうやら大丈夫そうね。ああ、順序が逆になっちゃったわね。
あなた、倒れたのよ。マラソン大会の途中に気を失って」
「ああ…そう…だ…」思い出した。
「で、学校の先生の車でこの病院に連れて来たんだけど、今は夕方。ずっと寝てたの」
「…病院…」ようやく事態が飲み込めた。
「じゃあ、ついでに2、3質問するわね?」
「はい」
名前や住所、生年月日などを聞かれ、答えた。医師の先生は書類に目を通し、確認している。
「ちょっと前から練習してたみたいだけど、昨日も走ったの?」
「はい」
「どのくらい?」
「10km…くらい」
「普段運動は? 部活とか」
「いえ…やってないです」
「昨日の夜は良く眠れた?」
「あまり…」
「今日、走る前の体調は?」
「あまり、良くなかったです」自分で答えていて恥ずかしくなってきた。
こんな状態で無理すれば倒れるのも無理ないか。
「私や、他の人達が何が言いたいか解かる?」
「…はい。すいません…」
「…まぁ、どうやら大丈夫そうね。疲労と酸欠と軽い脱水症状で倒れたのよ。
調子の悪い所に無理が重なって。でも、もう大丈夫だから安心して。
病気とかじゃないから。まぁ、今は大人しくしてなきゃダメだけど」
「はい」
それから簡単な検診を受けた。血圧や脈も測った。いずれも正常だった。
「じゃあ、今日は大事をとってここに泊まっていく? どうする? どちらでもいいわよ」
「あ…、か、帰ります」
「そう? まぁその辺は親御さんとも相談しなさい。
あと、友達も来てるみたいだけど、さわいじゃダメよ?」
「はい…」友達…。誰だろう。
「じゃあ、私は行くけど、もう友達や親御さんに会っても大丈夫?」
「はい」
「じゃあ、呼んで来るわね」そう言って先生は病室を出て行った。
一人になり、がらんとした病室を見つめる。一人部屋のようだ。なんだか湿っぽいところだった。
やがてその後、母親と、担任、校長が部屋に入ってきて、俺を気遣った。
俺はなんともない、帰ると言ったが、皆今日は泊まれと言う。仕方ないので言う通りにした。
明日は学校に行くと言った。身体は少し痛かったが、怪我もなかった。
とりあえず、俺は全員に迷惑かけたことを詫びた。
3人はとりあえず俺が大丈夫な事に安堵し、俺の謝罪に納得し、部屋を出た。
母親は俺の着替えやら制服や鞄を取りに戻った。思ったよりも大事になってしまっていたようだ。
やがて、ドアをノックする音。
「はい、どうぞ」
「ああ! 手術は成功だったんだね、一郎兄さん! 僕の事、思い出した!?」
「…そんな弟がいた覚えは一切ない。大体笑えないぞ、事と次第によっちゃ」
秋田だった。まったくこいつは。俺は笑った。
「まぁまぁ、でもビックリしたぞー? いきなり倒れるんだもん」
「……」
「なんかさ、人が何人かいてさ、その後教師が来て、お前を車に乗せてった」
「そうなのか…」
「そういや片瀬もいたな。俺が駆け寄った時はもう何人かいたけど、片瀬が最初に駆け寄ってたみたいだよ。
なんつーか、初めて見たな、あんな片瀬。凄いうろたえてた」
「そう…か…」何だか申し訳ない。自分で走るって言っといて、心配させてしまって。
「あ、忘れてた。ちょっと待ってろ」
「?」
「へへっ…いいから待ってろって。すぐ戻ってくるから」ニヤついて部屋を出て行った。
しばらくしてドアが開く。ノックもしないで開けるあたり、秋田が帰ってきたのだろう。
が、その後ろ。
「片瀬?」秋田の後に、俯いておずおずと彼女が入ってくる。
「へへ、俺達一旦家に帰ってから病院で待ってたんだよ。お前の目覚めを」
「あ、そうか…」言われてみれば二人とも私服だった。俺は体操着だったけど。
「……」片瀬は俯いて立っている。目を逸らし、どうしていいか解からないといった様子だった。
「……」俺も何を何て言ったらいいのか解からない。沈黙。
「あ〜、じゃあ、俺行くから」秋田が言う。
「え? もう帰るのか?」
「いや、用を思い出して」
「用?」
「そろばんのお稽古行かなきゃ」
「やってねーじゃん」
「あ、間違えた。バレエのレッスンだ」
「嘘にも程がある」
「プリマドンナ目指す事になったんだよ。家の都合で今日から」
「どんな家だ。それにお前んちスーパーじゃん」
「世を忍ぶための、表の顔はな」
「…もういい。好きにしろ」おそらく俺と片瀬の間にある事情を察して気を利かせているのだろう。
「悪いな。まぁ、二人で仲良くな。じゃあね、片瀬」
「…あ、う、うん」彼女は名前を呼ばれてようやく喋った。
「じゃあな。明日は俺学校行くから」
俺は秋田に言った。暗に、健康だから心配するなと言う意味を含ませたつもりだった。
「ああ。…おっと、お大事に」どうやら伝わったようだ。
「どーも」秋田は出て行った。
そして静寂。片瀬はまだ俯いて立ちつくしている。
「と、とりあえず座りなよ」俺はベッドの脇にある椅子を勧める。
「あ…うん」片瀬はそれに座った。
俺はベッドに座って彼女を見詰めた。いつもの覇気が全くない。
萎れた花のように身体に芯が通っていなかった。
やがて。
「…ゴメン…ね…」
「…え?」何故謝るのか解からない。
「私のせいで、西野君、倒れちゃって…。さっき秋田君から聞いた。今日、調子悪かったって…」
「あのバカ、余計な事を…。いや、それは…」否定しようとしたが、
「ううん。私が、無理に走らせた。元々、興味なかったのに全力でやらなきゃダメだよなんて。
デート…するなんて言って無理やりやる気出させて。
自分がちょっと頑張れたからって西野君にまで全力出させて。今日、本当は調子悪かったのに…」
今にも泣き出しそうな彼女。
「私、自分の事しか考えてなかった。西野君が頑張って、走って、全力出して…。
そんなの、人に言われて頑張ることじゃなかったのに…!
それで、こんなことになっちゃって、失神までさせちゃって」
遂に涙が零れ落ちた。嗚咽する。どうして俺は彼女を泣かせてしまうんだろう。
そんなつもりはさらさらないし、いつも幸せでいて欲しいと、心から望んでいるのに。胸が痛んだ。
「…違うよ。片瀬は悪くない」
「でも…!」
「いいから、ちょっと話を聞いてくれないか?」優しく問いかける。
「……」無言でうなづく。俺は続けた。
「まぁ、きっかけを作ったのは片瀬だよ。俺に本気で走って、って言ったのも片瀬。
それは間違いない」
「…うん…」彼女はすまなさそうに頷く。見てるこっちの方が悲しくなるくらい痛々しい。
「でもさ、走ったのは俺じゃん」
「……」
「片瀬の話に乗って、デートを見返りにして、特訓して、本番に臨んで、本気で走って倒れたのも俺」
「でも、それでも、私があの時応援しなければ、倒れるまで無理する事はなかったかもしれないし…」
「違うよ」
「え…?」
「俺な、あの時凄く嬉しかった」
「……」
「結果的に倒れて、まぁ、リタイアっていうかっこ悪い結果だったけど、
多分、本調子の時だったらあのまま10位でゴールできてた。
あの応援のお陰で、一時的にでもあのサッカー部の奴を抜けたんだよ。
片瀬の励ましがなかったら、無事ゴールしてたかもしれないけど、10位は無理だった。
彼は抜けなかった。絶対に。
今日は、俺の失敗。敗因は体調悪いのに無理したから。でも、片瀬の応援は間違ってなかった。
だって、限界だと思ったもん、あの時。でもそこから更に一歩、前に進めた。
結果だけ見れば俺は失格だけど、無意味じゃなかった。自分でも驚いたよ。
応援がこんなに心強い物なのかって」
「……」
「な? わかったらもう自分を責めるなよ。それに、俺はもうなんともないんだからさ」
「……」
「どうしたの?」俺は黙り込んでいる片瀬に聞いた。
「…かっこ悪くなんかないよ…」
「…え…」
「凄く、かっこ良かった。実際、厳しいんじゃないかって思ったけど、
サッカー部の人を抜いた時は信じられなかった。本当に興奮したし、嬉しかった。飛び跳ねて喜んじゃった」
「ああ、あれ。…ふふ、見てたよ」俺は笑って言った。
「でもね、誰の応援でも良かったわけじゃない」
「え?」
「片瀬の応援だったから。絶対抜いてやろうって思ったよ。あの時。
片瀬もさ、俺の応援でスパートしたじゃない? それで勇気付けられたって言ってたし、
それに応えなきゃってのもあったけど、それ以上に…」
「それ以上に? 何?」
「あー…その…片瀬だったから、かっこいい所を見せたいとか、見てる前では諦められないとか、
思ったわけですよ…。僕は」照れながら言った。
「あ…」赤くなる彼女。
「ああ、ごめん、変な事言って…また困らせちゃうよな、こんな話」
彼女は沈黙して顔を伏せた。何かを思案しているようだったが、やがて意を決したように、
「あ、…西野君…?」
「何?」
「あのね、…聞いて欲しい事があるの」
「? いいよ?」
「…前に、その、何人かの人が私に告白してきたけど、全部断ったっていう話、覚えてる?」
「ああ、覚えてるよ」俺も断られたけど。とは言えなかった。
「前にも言ったけど、断った人の中には良さそうな人もいたの。真面目そうな」
「…うん」
「でもね、何人かの人は、私に断られてからすぐ他の人にも告白して、付き合ってたの」
「ああ。そうなんだ…」
「私、思ったの。あの人達は、本当に私の事を好きだったのかって。
どうして、そんなすぐに他の人を好きになって、付き合えるんだろうって。
そんなに簡単に好きって気持ちは変わっちゃうのかなって、思うの」
「…うん」
「それで、怖くなったの。真面目そうな人もいたけど、この人もそうなんじゃないかって。
ここでOKして付き合っても、この人もすぐ心変わりしてしまうんじゃないかって。
それで、私は断るようにしたの。全部。…怖かったから。気持ちが変わってしまうのが。
本当に、本当にね? 本当に好きなんだったら、そんなに簡単に気持ちは変わらないんだよ。
減ったり、薄れたりする事はあるかもしれないけれど、
すぐにパッと点いたり消えたりするものじゃないんだよ。本当に…愛しているなら。真剣なら。
家族の愛情や、友情だってそうでしょ? ちょっと嫌な事があったり、喧嘩したりしても、
仲直りしようと努力したりするし、いきなり絶交や、勘当したり、家出したりしないでしょう?」
「…うん。そうだね」
「なのに、相手に拒絶されたからって、告白したその舌の根も乾かない内に、
すぐに他の人の所へ行っちゃうなんておかしいよ。私は好きな人に断られてもそんなにすぐに忘れられない。
それは性格の違いかもしれないけど、好きな人に拒絶されたら普通は落ち込むよ。しばらくは」
「…ちょっと、いい?」
「何?」
「その、片瀬に告白した人って、すぐに他の人と付き合ってたんでしょ?」
「うん」
「告白してからどのくらいで、他の人と付き合ってたの?」
「…3日、経つかたたないか…くらいだったと思う」
「そりゃ…凄い」フットワークのいい奴もいるもんだ、世の中には。
「その人を見て、他の人のも断るようになった?」
「…うん。ちょうど、1年前くらいかな。私がこの学校に転校してきてすぐくらい」
「なるほど。大体解かった」
「え?」
「多分、そいつは外見に惚れたんだな。片瀬の。いや、惚れたというか、気に入っただけというか」
「どういう事?」
「そいつと面識あった? クラスが一緒だったとか」
「ううん。知らない人だった」
「やっぱりか…。いや、多分、推測だけど、
可愛い子がいたからとりあえずモノにしてみたかったんじゃないかな。
だって、転校してきてすぐで、しかも片瀬とろくに面識もないのにいきなり好きだって、
そりゃ外見しか見てないよ。きっと」
「やっぱり、そう思う? あ、いや、私が可愛いとかじゃなくて…」
「ははっ、謙遜するなって。実際可愛いんだから」
「うう…あ、ありがとう…」泣きながら照れてお礼を言う彼女。可愛い人だと思った。改めて。
「どうも。でだ、それでそいつの事は断ったのはどうして?」
「え…だって、良く知らないし。いきなり言われても困るし、
とりあえず付き合ってみればいいじゃん、って言ってたけど、そんなに簡単な事には思えなかったから…」
「…聞けば聞くほどどうしようもない奴だな。…だんだん腹立ってきた」
「そ、そう?」
「そうだよ。だってさ、さっきの片瀬の話の続きだけどさ、君の言うとおりだよ。
そんなに簡単に点いたり消えたりしないんだよ。気持ちは電球じゃないんだから。
本当に真剣なら。俺だって、片瀬に断られたけど、しばらく辛かったもん。立ち直るの結構時間掛かったし」
「…ごめんなさい…」
「あーいや、謝らなくていい。だってそれはしょうがないじゃん」
「……」
「でもね、断られたからってさ、いきなりなくなったりしないよ。現に今だって…あ…」
「今だって?」
「…あ、いや、いい」照れくさくなった。
「言って?」
「だって、今更言った所で…さ…」
「それでもいいから。…お願い…」
「う。わ、わかったよ…」俺は逸らしていた視線を彼女に合わせ、
「…今だって…す、好きだしさ…」
「……本当に?」
「ああ、当たり前だ。大体デートして欲しかったからあんなに走ったんじゃないか。特訓までして」
「…あ…、そ、そうだよね」
「おいおい、忘れてもらっちゃ困るぞ? あれがなきゃ、こんなに頑張らなかった。
たとえば、他の人が頑張ればデートしてくれるって言われてもやる気にはならなかったよ」
「そう?」
「そう。まぁ、最後の方はデートがどうだとか、そんな事忘れてたけどね。片瀬との約束を果たしたい。
片瀬が頑張ったから俺も頑張りたい。なんとか片瀬の前でかっこいい所を見せたい。
情けない所は見せたくない。それだけしか考えてなかったよ。
まぁ…結果は非常に無様でしたが…」俺は自虐気味に笑って言った。
---続く---