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黒衣の男が、暗色に変光させた照明の下で、煙草を吹かしている。
この部屋にある原色は、男が吹かす煙草の赤い火しかない。
女がやってきて、男の前に立った。
「私も、今夜ですべてを片付けるわ。会社も辞める。あなたにも、もう二度と会わない」
「そうかね。長い間ご苦労だったな」
あっさりと男は答え、黒革のソファに音もなく腰を下ろした。
女は立ち尽くしたまま、そんな男を見下ろしている。
「最後にひとつだけ教えて。あなたにとって『彼女』はどういう存在だったの? 何だかんだと言葉を弄していたけど、本当のあなたの望みは―――」
「最初から言っていたじゃないか。『彼女』は俺の好みのタイプだとね。知っているだろう?」
生まれてから一度も、俺は嘘を言ったことが一度もないんだぜ―――
冗談めかした普段の口調で、男は云う。
女はしばし、そんな男を凝然と見つめた。
「それにしては―――、今夜はあっさりとひいたのね」
「分かっているからだよ。そのうち、また戻ってくるとね」
男は―――微笑した。
「あいつがこれまでに目にしたものは、『彼女』と暮らすかぎり、いつまでもあいつの脳裏にまたたきつづける。決して失われることはない。君はあの男をよく知らないから、信じることが出来たんだよ。俺はあいつを知り抜いている。男というものの欲望のつよさを知り抜いている」
くすくす、と男はわらいごえをあげた。
「いつか、またあいつは“つづき”が見たくなる。それはそんなに遠い日じゃない。そして、『彼女』もきっとそのことを分かっているのさ。賭けてもいいよ」
確信に満ちた言葉に、女は数歩後ずさった。
そして、云った。
「私はもう二度と戻らないわ」
「君ならそうだろう」
男はうなずいた。
「『彼』も―――もう二度と戻らない。『彼』は『彼女』を愛している。私はそれを知っているし、信じているの」
「愛情にもいろいろな種類がある。奴のそれはサディスティックなものを伴っているのさ。いや、マゾヒスティックというべきかな。男がどんな生き物か、君なら身をもって知っているだろうに。だが、もう今夜は議論はやめよう」
「そうね。―――さようなら」
女は振り返って、ドアのほうに歩みを進めたが、また立ち止まった。
「私は―――信じているわ」
「信じるのは君の自由だよ。―――おやすみ」
最後の言葉には答えず、女は部屋を出て行った。
――――――*――――――
ようやく、明子が赤嶺の部屋から出てきた。
ひどく顔色が蒼褪めていたが、私たちを見て、にっこりと微笑った。
妻はYシャツに、これは赤嶺の部屋から失敬してきたシーツをまとっただけの姿だ。
「携帯でタクシーを呼んで、まず私が自宅に帰るわ。そこから車をまわして、瑞希さんを連れて帰る。あなたは別のタクシーで帰って、今夜は自分のマンションで休んで。明日、私が瑞希さんをあなたのマンションまで送っていくわ」
もう一刻も妻と離れたくない気分だったが、明子の目顔でその意図を察した。
「分かった。妻を頼む」
「ありがとう―――明子さん」
うつむいていた妻が、深々と明子に頭を下げた。
まだ胸元に吊り下がったままの髑髏が、きらり、と鈍く光った。
「本当にごめんなさい。迷惑をおかけして・・・・明子さんにも・・・、あなたにも。こんな・・・・・私のために」
かすれた声で言う妻の身体を、私は抱きしめた。
艶やかな髪の毛が私の頬をくすぐる。
「遼一君にもお詫びしなければ・・・・・ひどい目に遭わせてしまったあの子に」
苦しそうな息遣いとともに、耳元で妻の声がした。
「俺も一緒に謝るよ。とりあえず、今夜は心配しないで。ゆっくり休んで、そして明日になったら、絶対に俺たちの家へ戻ってきてくれ」
私は言い、またきつく妻を抱いた。
そんな私たちを見つめながら、明子が携帯電話を取り上げた。
夜が明け、朝になり、昼になり、そしてまた夜になった。
私はずっと部屋のマンションで待ちつづけていた。
妻を。
この部屋はもう、彼女には入りたくない場所かもしれない。だが、ここは私と妻の五年間の生活がすべて詰まった場所だった。
私はそこで待っていた。妻の帰りを。
不安と、高鳴るような胸のときめきを同時に感じながら。
やがて、チャイムが鳴った。
弾かれたように玄関へ駆け寄って、ドアを開ける。
そこに、彼女はいた。明子のものらしい衣装は、少し若めだったが、よく似合っていた。
私は彼女を抱きしめ、部屋の中へ導きいれた。
しばし、無言のまま、私たちは向かい合ったソファに座り込んだ。
以前はこういうとき、すぐに煙草を取り上げたものだったが、私はもう二度と吸う気はなかった。妻は身ごもっているし、何より、私は変わらなければならなかった。
それに―――、こうして黙って、彼女の顔を見つめていられることが、今の私にはこれ以上なく幸せなことだったのだ。
「コーヒーでもいれようか」
「あ・・・私が」
立ち上がった私に、妻も慌てたように腰を浮かせた。
「いいんだ、俺がやる」
「でも・・・・・」
困ったような表情は、以前とまるで変わらなかった。
自然とわきあがってくる笑みを噛み殺しながら、私はキッチンへ行きかけ、その途中で思いついて、CDのコンポに向かった。
ラックに並んだなかから、一枚を抜き取って、コンポにかけた。
やがて、流れでる、メロディー。
ポール・サイモンとアート・ガーファンクルの、息のあったハーモニー。
「この曲は・・・・・・・」
立ち尽くしたまま、妻が呟く。
「そう。“サウンド・オブ・サイレンス”だよ。俺たちが初めてふたりで一緒に見た、あの映画のテーマ曲」
私は言って、妻に笑顔を向け―――
そのまま、凍りついた。
妻が泣いていたからだ。
「どうして・・・・・・」
愕然とした私のほうを見ず、妻は両手で顔を押さえて忍び泣いている。
その、手指の間から、吐息のような呟きが漏れた。
「『卒業』―――――」
私には―――
分からなかった。
本当に分からなかったのだ。
どうして妻が泣いているのか。
どうしてそんなに哀しい顔をするのか。
どうしても―――分からなかった。
だから―――分からなかったから、近寄って、何も言わずに彼女を抱きしめた。
「大丈夫。大丈夫だから」
私は囁き、両腕に力をこめる。
しめやかに流れつづける、沈黙の音。
妻の嗚咽。
そして―――
遠くから新たな一台のバスが近づいてくる幻影を、妻の鼓動を胸で感じながら、私は瞼の裏に見ていた。
---完---