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映像はそこで静止していた。
声も出せず、動くことも出来ないまま、私はその妻の表情を眺めていた。
「―――コーヒーいれようかな。キッチン使わせてもらうわね」
明子が立ち上がり、やがてカップをふたつ抱えて戻ってきた。
差し出されたカップを、私は黙って受け取る。
そんな私の表情を、明子は依然としてあの観察するような目で見ていた。
「そろそろ・・・・教えてもらえないか」
「何を?」
「君がわざわざ東京までやってきて、こんなものを俺に見せたわけだよ。―――まさか、S企画の新商品の感想を俺に聞きに来たわけじゃないんだろ」
それはもちろん皮肉だった。言った自分が一番傷つく皮肉。しかし、明子は静かに私を見返して「当たってるわよ、それ」と言った。
「何だと」
「感想を聞きたい、ってところだけね」
「どうして・・・・」
「どうしても。答えて。あなたはあの映像を見て、どう感じたの?」
怒鳴り散らしたいほど気分の悪い問いだった。けれどそう口にする明子の表情はあまりにも真剣で、私は気を呑まれた。
「吐き気がした。胸が悪くなった。赤嶺と、それからS企画の人間全員を殺してやりたくなった。これで充分か?」
「そうね。充分よ」
明子は手に持ったカップを正座した膝の辺りに押し当て、うつむいた。
「正直に言うわ。最初、赤嶺が奥さんをモデルにビデオを撮っていると知ったとき、私は、それがあなたの要望でもあるのかと思ったの」
「俺の・・・・要望?」
そんな、馬鹿な。
「二年前、あなたは奥さんを欺いて、赤嶺に抱かせようとした。その件に関しては、私も片棒担いでいるから偉そうなことは言えないけど・・・・。こんな職業をしているから余計分かる、ひとの欲望ってどこまでも底が無いものよ。欲望が欲望を生み、次第次第にエスカレートしていく。現に去年の夏、天橋立で、あなたはまた奥さんを赤嶺に委ねてしまったんでしょう?」
「だからと言って・・・・・妻を、瑞希をAVに出演させようなんて、そんなこと、本気で、俺が望むと思ったのか?」
「分からないわ。私、あなたのことよく知らないもの」
にべもなく、明子はそう切り返した。
「それにあなたには赤嶺がいた。あれほどひとの心を読み取って、巧みに唆していく男を私は他に知らないわ。自分が操られていることにも気づかずに、赤嶺の意のままに動いている人間を私は何人も見てきたもの」
「あいつは・・・・・いったい何を考えているんだろう?」
「さあね。けれど、あなたとは違った形で、赤嶺が奥さんにつよく執着していることだけは分かっているわ。信じられないくらい、強引な手口まで使ってね」
明子はため息をついた。
「最初の質問にまだ答えてもらってないな。君はどうしてあのビデオを俺に見せたんだ?」
「言ったでしょ。あなたの感想を聞くため。というよりも、あなたの反応を見るためね。それ次第で、私はこれからの私の態度を決めなくちゃいけないから」
「意味が分からない」
深く澄んだ目で、明子は私を見つめた。
「たしかに赤嶺は酷いことをしている。けれど、あなたはそんな赤嶺の危うさを知りながら、ずっと長い間、奥さんを彼に預けてきたんでしょう? いえ、赤嶺がああいう人間だからこそ、あなたはその分スリルを味わうことが出来たんじゃないかしら。だけど、それは奥さんが望んだことじゃなかった。たとえ、彼女の承諾があったとしても、肉体的な痛みが伴わなかったとしても、これはドメスティック・バイオレンスに近いものがあると私は思うの。ひとりの女としての意見よ」
ドメスティック・バイオレンス―――家庭内暴力。
明子が口にしたその重い言葉に、私は打たれた。
「私は―――今のあなたの望みを叶えてあげられる。あなたと奥さんを会わせてあげられるわ。それはすべてを捨てたつもりの奥さんにとっても、心の底から望んでいることかもしれない。だけど、それが本当にいいことなのかどうか、私には分からないの」
「俺が・・・・・瑞希の夫としてふさわしくないと言いたいのか」
「将来的な話よ。―――いま、あなたが奥さんに会えば、彼女は救われるかもしれない。会って、子供のことや、遼一君のことをきちんと話せばね。だけど・・・・」
明子の言わんとすることが私にはようやく察せられた。
「将来的な話の意味が分かったよ。君は俺がいつか・・・また同じことを繰り返すと疑っているんだ。現に・・・去年のことがあるから」
「一度幸福を味合わせてから、その幸福に裏切られるのは、最初から絶望の中にいるよりも辛いことよ」
その言葉に、私は黙り込むしかなかった。
明子はそんな私をじっと見つめていた。
それから、いきなりこんなことを言った。
「私ね、二年前の奥飛騨のとき、一度だけ、奥さんとふたりきりで話したことがあるの」
「どんな・・・・話?」
「昔話よ。その頃の私は、赤嶺がつよく関心を見せている奥さん―――瑞希さんがどういうひとなのか、興味を持ってたの。だから、品がないけれど、瑞希さんにあれこれ尋ねたわ。彼女は自分のことを話すのが好きじゃないみたいだったけど・・・・。そのとき聞いたのが、昔、京都の旅館で仲居をしていた頃の話」
叔父夫妻の経営していた旅館か。
「瑞希さん、どう見ても客商売向きに見えないから、私、ちょっと驚いちゃって。そう言ったら、彼女も“やっぱり苦手だった”って言うのね。とくに笑顔をつくるのが苦手だったって」
ふっと明子は過去を思い返すような表情をした。
「女将さん・・・・叔母さんにそのことでいつも怒られていたそうよ。10代のころらしいけど、その叔母さんに呼ばれて、よく鏡の前で笑顔の練習をさせられたと言っていたわ。たまに時間のあるときは、ひとりで鏡を見ながら、笑顔をつくる練習をしていたんですって。“でもどれだけ練習しても、ちっともうまくならなかったんです”―――そう言って、困ったような感じで微笑ったときの瑞希さんの顔を、今でもよく覚えてる」
私は―――想像した。
まだ10代の、娘の頃の妻が、鏡台の前にひとり座って、つくった自分の笑みを眺めている光景を。
「瑞希さんはたしかに不器用なひとなのかもしれない。でも彼女は彼女なりに、あなたに対していつも真剣で、一生懸命だったと思うの。そう思うから―――、私はこれ以上、彼女を傷つける真似はしたくない」
「それじゃあ・・・・、今のまま瑞希を放っておくと君は言うのか」
「そんなことは言わないわ。あのAVにしろ、やり過ぎもいいところだし。最低限の約束だけは守られているけれど」
「約束?」
ビデオの中でも、たしか、そんな言葉が出てきた。
「いまAVと言ったけど、あれは赤嶺と交わした契約の手付けのようなものなの。瑞希さんに最後の覚悟を促すため―――といっていいのかしら。だから、あの映像は尻切れとんぼで終わってる。おかしいと思わなかった? “本番”がないなんて」
たしかに、あれだけ酷く責められながら、妻が挿入されるシーンはなかった。
「それは最初の赤嶺と瑞希さんとの約束にそうあったから。妊娠初期のセックスはご法度でしょう」
「だけど、ある意味それ以上にひどいやり方だったじゃないか」
「たぶん瑞希さんは、AVなんて見たこともないと思う。ただセックスを撮影したビデオくらいの知識しかなかったんじゃない? 赤嶺との約束では、出産まで挿入場面の撮影はなしということになっていたし、あの映像の最初は本当に“面接”のような気持ちだったんじゃないかな。たしかに最低限守るべきところはたしかに守られたけど、逆にそのことが脅しにもなってたのね。遼一君のときもそうだわ。脅したり、言葉で責めたりしながら、最後の一線だけは強制しなかった」
「だからどうだと言うんだ? あいつのやってることは無茶苦茶だ。瑞希は馬鹿だ。どうしてあんな奴のことを信じるんだ」
「―――他に誰もいないからよ。信じる信じないの問題じゃない」
暗い目で明子は私を見つめた。
「あなたに瑞希さんを馬鹿だという資格はないわ。彼女が妊娠したとき、あなたはその子が自分の子供だと、どうしても信じてあげなかったでしょ」
「状況が状況だったからだよ」
「分かるわ。だけど―――信じてあげてほしかった」
明子はほっと息をつき、私も黙った。
---続く---