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その慣用句がおそろしいど正確な表現だったことを、その瞬間の私は身をもって体験した。
ぐらり、と胃の腑が揺れた。
「まだ一月目なんですけれど―――」
頭蓋の中身だけでなく、視界までもが真っ白だ。途切れた世界の中でおぼろな声だけが聞こえた。
「喜んで―――くれないのですか」
この女は何を云っているのだろう。
「あなたの―――あなたと私の子供ですよ」
私の子供―――?
その瞬間に、私の意識は現在へ吸い寄せられた。
妻がいる。戸惑ったような、不安そうな表情を浮かべている。
「俺の子供・・・・?」
「あなたの他に・・・誰が父親だと仰るのですか?」
妻は微笑った。本当に哀しそうに。
「―――いつ?」
「たぶん・・・九月の末にあなたが大阪に帰ってらっしゃったときに・・・あのときに」
羞ずかしげにうつむきながら、妻はこたえる。
その仕草が不思議なほどなまめかしくて、私はまるで見知らぬ女がそこに座って私と話しているような気がした。
東京へ単身赴任してからも、私は幾度か大阪へ帰っている。それはたしかだ。妻の言うとおり、九月の末に私は帰り、そして妻を抱いた。
けれど―――
「君は・・・ピルを飲んでいたのじゃないのか」
正確には一年前―――赤嶺との関係が始ってから、妻はピルを服用し始めたはずだった。
「八月の旅行から帰ってきて、それ以来飲んでいませんでした」
「なぜ?」
妻はちらりと私を見た。
「不安だった―――からです。このままでは、もう、あなたと夫婦でいられなくなるとずっと思っていました。だから」
だから、確かなものがほしかったのだ―――と、眼前の女は云った。
「あなたに何も言わずにいたことはお詫びします。ごめんなさい」
妻は私に向かい、頭を下げた。
私は沈黙した。ずいぶん長いこと。
再び顔を上向けた妻は、そんな私を静かな瞳で見つめていた。
「都合が―――よすぎないだろうか」
ようやく口を開けるようになった私から飛び出したのは、そんな言葉だった。
「え・・・・?」
「俺と瑞希は結婚してもう五年になる。ここ一年は除くとしても、その前の四年間はいっこうに子が出来る兆しがなかった。正直に言うと、俺は、俺か君のどちらかの身体に問題があるんじゃないかと疑ってすらいたんだ」
そして私は、それでもいいと思っていた。
妻さえいてくれるならば。
「遼一が我が家に来ている間、そして瑞希があいつとの旅行から帰ってきてから、俺と君は数えるほどしか、していない。それなのに」
それなのに、妻は孕んだのだ。
私は言葉を詰まらせて、目の前の妻を見た。知らず知らず私の視線は、彼女の下腹の辺りを向いていた。服の上から見るそこはまだわずかのふくらみも見えないのに、見慣れたはずの妻の肢体がまったく違うものに見えていた。
私の言葉に、妻は少し身じろぎした。そして一瞬あらわにした動揺を隠すように両手を膝の辺りでぎゅっと組んだ。
私はそんな妻の仕草をじっと見つめていた。
「あなたが仰りたいことは・・・・なんとなく分かります。いえ、分かっていました。ずっと・・・あなたがそう仰るんじゃないか、そればかりを考えて、私は今日この日がきて、あなたにこの子のことを伝えるのが怖かったの」
嬉しかったのに、ね。
うつむき、小さな手ですっと下腹の辺りを撫でながらそう囁いた声は、私ではなく、別のものに向けて語られたような気がした。
「厭な想像が当たってしまいました。あなたはやっぱり疑っているんですね、私のこと」
「疑いたくはない、けれど」
「夏からずっと、あのひととは会っていません。本当です」
「―――――――」
「もちろん子供が出来るようなことも・・・・決して」
目元を紅く染めながら、妻は必死な声で言う。
息苦しい沈黙が落ちた。
もしこれが何でもない普通の夫婦の間に起こった出来事なら、それは喜ぶべきことだったろう。私たちは結婚して五年もの間、子を持つことがなかった。私は平気だったが、妻はひそかにそのことを気にしていたのかもしれないし、遼一が我が家に来ていたときは母親の京子のことを羨ましいと言ったこともある。
だから、喜ぶべきこと―――なのである。
しかし―――
この数ヶ月間は私と妻が結婚して一番、性交渉を持たなかった時期だった。遼一が来ていたこともあるし、何よりもあの男のことで夫婦間が緊迫していたからである。九月末に私が帰った日の夜と、妻は受胎の月日の見当を口にしたが、妻の言うその夜ですら私と彼女は三十分も抱き合っていなかったように思う。果てるとき、妻のなかに出したのかどうかすら、私の記憶にはなかった。それくらい、淋しい交わりだったのだ。
もちろん―――私は信じたかった。
妻のようやく孕んだ子が、私の子でもあると信じたかった。
しかし―――この数ヶ月、私のいない家で、妻はずっと私の知らない時間を過ごしていて。
妻のすぐ近くには、あの男がいて。
最後に会ったとき、あの男は何と言っていただろうか。
―――ありえない話だと―――思うかね。
そう、言っていた。
沈黙は続いている。
考え込むときの癖で、私は煙草のケースを取り上げたが、咎めるような妻の顔に気づいた。
ああ―――そうだ。
妻は身ごもっているのだ。
母親なのだ。
そして父親は―――
「瑞希。冷静に話を聞いてほしい」
「・・・・はい」
「俺には確信が持てない。その子の父親だと・・・自分自身に言い切る自信がないんだ」
妻は哀しげに頸を振った。
「あなたの子供です。きちんと検査すれば分かるはずです」
「それは子供が生まれてきてからの話だろう」
DNA鑑定でも何でもいい。
検査の結果で、もし否が出たら。
そのときは―――地獄だ。
「だったら・・・どうしろ、とあなたは仰るのですか。この子を堕ろせと・・・そう言うの」
その質問に私が答えなかったことが、妻にとっての回答となった。
「私はもう若くありません。これが最後の機会かもしれないんです」
「今まではあまり子供のことを口にしなかったじゃないか。どうして今になってそんなに拘泥するんだ」
その発言は、決して声に出してはならない言葉だったのだろう。
妻は大きく瞳を見開いた。
ひゅう、という音が、彼女の喉から漏れ聞こえた。
これまでの人生で苦しかったことは多々あるけれど、これほど苦く辛い瞬間は私にはなかった。
ふらり、と妻が立ち上がる。
その瞬間の妻が、私にはまるで幽霊のように見えた。
「昔―――まだ私の両親が生きていた頃―――」
今までと、まったく違うトーンの声が、した。
「私は小学校にあがってまだ間もなくて・・・その日は・・・家族総出で買い物に出かけていて・・・。お父さんがいて、お母さんがいて、私は真ん中でふたりに手を握られていました。余った手でお父さんは買い物袋を抱えていて、お母さんは時々面白い冗談を言って・・・それでみんな笑って・・・。でも、長い交差点にさしかかったとき、何かのはずみで私はふたりの手から放れて、ひとりだけ先にててっと走っていったんです。そうしてふたりを振り返った―――」
妻の長い髪が、はらりと落ちた。
「その瞬間、私の目に飛び込んできたのは、信号を無視して突っ込んできた乗用車でした」
妻の両親が交通事故で亡くなったことは、以前に聞いていた。
「どうしてなのか分かりません。私が両親についてはっきりと覚えている記憶は、後にも先にもそれだけなんです。もっと幸せなことが、もっと大事なことがあったはずなのに。それなのに、ふたりが自動車にはねとばされて、永遠に私の前からいなくなってしまった・・・そのときの光景だけが、ずっと―――」
「瑞希―――」
「今までも、私は怖かった。あのときのように一度手を放してしまえば、私の大切なものは永遠に消えてしまう。そんなイメージがずっと頭の中にあって―――でも大切にしようとすればするほど、私の掌からは何もかもが零れていってしまう。失ってしまうの」
見上げた私の視線に、妻はくるりと背を向けた。
私は立ち上がって、妻の肩先にそっと手を置こうとした。妻は激しく肩を震わせ、私の手を強くはらった。
「放っておいてください!」
悲鳴のように妻は叫んだ。
振り返った切れ長の瞳が私を睨んでいた。その瞳から涙が一雫こぼれ落ちたのが私の目に映った瞬間、妻は身を翻して部屋を出て行った。すぐに玄関のドアが音を立てた。
「待て!」
慌てて、私は妻の後を追った。玄関のドアを開けると、先程妻が言ったように雨が降っていた。
廊下の向こうで、一基しかないエレベータの扉が閉まるのが見えた。
階段を駆け下りた。ロビーで妻の姿を探したが、見つからない。
私は走った。
駅までの道を、ずぶ濡れになりながら。
「雨だというのに」
途中で幾度か呟いた。
そうだ。雨だというのに。
こんな時刻に。どこへ行くというのだ。
結局、私はその夜、二度と妻を見つけることが出来なかった。
その後のことは、まだ、知らなかった。
---続く---