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「おやすみ」を返す私と妻の声がそろい、その後で奇妙にしんとした沈黙が、目を見合わせた私たちの間に落ちた。
遼一の足音が遠ざかっていく。
妻の洗い髪はもうかわいている。
私は話のつづきを促した。
表情の深い瞳で私を見た後で、妻はゆっくりと口を開いた。
「―――屋敷の離れにある兄の部屋に向かって、扉を開いた私は驚きで立ちすくんでしまいました。部屋の中にいたのが義兄だけではなかったからです。義兄の友人で私も何度か見かけたことのあるひとがいたのです。
「立ちすくむ私を、義兄は強引に手を引いて部屋の中に引き入れました。そして、私に友人を紹介しました。その友人の男性は義兄と同じ大学に通っていたひとで、家によく遊びにやってきていました。『この家で何度かお前を見かけるうちに、こいつ、お前のことを好きになったんだってさ』―――義兄は言いました」
「意外な話の成り行きに私は困惑して、黙り込んでしまいました。友人の彼は照れたようにへらへらと笑いながら、困惑する私を見ていました。その視線がなぜかとても厭な感じで、今すぐにでも腰を上げて部屋から出て行きたいと思いましたが、義兄の手前、それも出来ませんでした。黙り込んだ私を見て、義兄はふっと笑いながら、友達の彼に『妹はこういうことに疎くてね。でも、お前のことを嫌がっているわけじゃない』と私の気持ちを勝手に代弁しました。その後で、義兄は『じゃあ、お邪魔虫は去るからな』と言って、離れを出て行ってしまったんです。
「ひとり取り残された私は、今の状況が理解できないままに、ただ捨てられた子犬のような心地でした。義兄は他の誰よりも私のことを知っていたのに、私の気持ちなどいっさいかまうことなく、ただ友人に頼まれるままに私を彼に押し付けて、さっさと去っていってしまったのです。義兄はやっぱり王様で、私は彼にとって奴隷のひとりでしかなかったのだ―――とそのとき思いました」
そう言った後で、妻は少し前かがみになって、2,3度小さく咳き込んだ。ふたたび顔を上げたとき、その瞳がかすかに潤んでいるのが分かった。
「落ち込む私とは逆に、友人の彼は義兄がいなくなって少しづつ大胆になっていきました。『緊張しているんだね』彼は私の傍らに座って囁きました。『こういうことは初めてなんだろ。君のことならお兄さんから何でも聞いているよ』そう言った後で、彼は私の手を握って、君のことが好きだと何度も繰り返しました。この家に来て、母屋の旅館で働く私の姿をいつも見ていた、と彼は言いました。『その仲居の衣装もよく似合っているよ。とても可愛い』甘い声で囁く彼に、けれど私はどうしようもない嫌悪感が湧いてきて、ほとんど泣き出しそうな気持ちでした」
「うんともすんとも言わない私に、彼のほうも段々不快そうな表情になっていきました。『僕のことが嫌いなのかい?』彼は言いました。『どうなの?そうならそうとはっきり言ってよ』私の肩を揺さぶって、彼はしつこく聞きます。がくがくと揺さぶられ、眩暈さえ覚えながら、私はようやく頸を横に振りました。『嫌いじゃないの?』その問いにも、うなずきました。そうしたら彼は、薄笑いを浮かべてこう言ったんです。『お兄さんの言ったとおりだ』―――その言葉の意味を考えるよりも前に、彼は私の唇に唇を押しつけました」
最後の部分を一息に言って、妻は口を閉じた。
束の間、アルバムの曲と曲の切れ目のような、胸の騒ぐ静寂が場に落ちた。
しかし妻の話はまだ終わらない。やがて、彼女はまた口を開く。
「一瞬、何が起こったのか分からなくて―――でも次の瞬間、私はほとんど無意識のうちに悲鳴をあげて、彼の身体を突き飛ばしていました。震える脚で立ち上がって、私は後も振り返らず部屋を飛び出しました。突き飛ばされた彼が何か悪態を叫んでいましたが、私の耳にはもう聞こえていませんでした。裸足のまま駆け出して、家の敷地からも飛び出して、私は走りました。もちろん行く当てはありません。でも、一秒より早くあの離れの近くから離れたかった」
「結局、2,3時間私は外を彷徨いました。辺りはもう真っ暗で、足の裏は血だらけで、衣装もあちこち汚れていました。こんな格好で帰ったらまた叔母に怒られる、と私は思いました。それから離れに残してきた彼と、彼を押しつけた義兄のことを思いました。何がどうしてこうなったのか少しも分からず、けれどどのみち自分はあの家に帰らなければならないことだけは頭の隅の冷えた部分で分かっていて、そのことが余計に疲れた身体を重く感じさせました」
「死んでしまいたい、いっそ死んでしまいたい。そんなことをずっと考えながら、私はとぼとぼと夜の中を歩きました。本当にその気になればいつでも死ねる―――そう考えることが不思議に安らぎになることがあると、その夜、私は知りました。実際にそうする勇気もないくせに、ね」
なぜかそこで妻は顔を上げて私を見、久々の―――本当に久々の微笑を浮かべた。
「季節は秋で夜の空気は冷たくて、身体はどんどんと冷えていきました。吐く息は真っ白で、月が空の真ん中にぽっかりと浮かんでいて・・・・今でもあの夜のことはよく憶えています」
そんな強烈な体験なら、忘れようにも忘れられないだろう。
「色々なことを考え、想いながら、私は結局、叔父の家に向かって足を進めるしかありませんでした。家の前まで来て、道の端で誰かが煙草を吹かしているのが見えました。―――義兄でした」
「義兄は私の姿を確認すると、煙草を靴で踏み消して、近寄ってきました。私は怖かった。義兄に怒られると思ったからです。おかしな話ですね。怒るべきなのは、その権利があるのはこちらのほうなのに、その私が怯えていたなんて」
「でも想像に反して、義兄は怒っていませんでした。普段と同じ口調で『どこをほっつき歩いてたんだ』と素っ気無く言いました。その言葉を聞いて、ようやく私の中にも怒りが蘇ってきて、私は泣きながら先程のことを非難しました。はじめて義兄のことを大声で詰りました」
「切羽詰まった声でとがめる私を見ながら、けれど義兄は最後まで言わせず強引に手を引いて、私を抱き寄せ、『でもこれで少しは分かっただろう?』と言いました。突然のことに戸惑い、抗いながら、私は『何のことか分からない』と答えました。『男のことがだよ。お前は何にも知らないから』義兄はそう言って―――笑いました。そして」
そこでまた、妻の言葉が途切れた。私は黙ってその続きを待つ。
けれど、「そして」につづく言葉はなかった。
時計の秒針の動く音が、大きすぎるほど大きく聞こえた。寝巻きを着た妻の、薄い肩の辺りから蒼白いうなじにかけての肌に映った陰影を、私は見つめていた。
2分ほどそんな時間がつづいたろうか。
妻の唇がようやく動いた。
「・・・義兄が死んだのはもう八年も前のことになります。今話した夜の出来事からも八年後ですね」
その16年の間、私が妻とともに過ごしたのは、わずか五年にすぎない。その五年の間にもいろいろなことが―――本当にいろいろなことがあった。
「瑞希にとって―――お義兄さんはどんな存在だったのかな」
私はようやく口に出す言葉を見つけ、妻に問うた。
「今でも分かりません。叔父の家の中では、私は義兄の影のようなものでした。それとは別の意味で、義兄はずっと―――私を支配していました。亡くなるまで、ずっと義兄は、私の支配者でした」
支配という言葉をこれほど不穏な響きで聞いたことは、かつて私の経験にはなかった。
「俺も―――」
「え?」
「瑞希にとっては俺もお義兄さんと同じような暴君だったんだろう。だから、離れていくんだろう」
自分でも何を言っているのか、何を言いたいのか、分からないままに私の呟きは声となって外へ出て行った。
「赤嶺のことが好きになったのだろう?」
「・・・先程、私は聞きましたね。『赤嶺さんが好き』と言った言葉を嘘だと思うかどうか。あなたは嘘だと答えてくれなかったけれど」
「俺は知っているんだよ」
「何をですか? 私の何を知っているんですか?」
妻は大きな瞳に潤ませながら、微笑した。
その質問にも私は答えることが出来なかった。
「君のことじゃなく、ただ俺がひどい夫だったというだけだ」
「それならば私も同じです。自棄になって、あなたと遼一君を残して、赤嶺さんと旅行へ行った。私はひどい妻です」
同じです、と妻はもう一度呟いた。
私は立ち上がって、妻の細身を抱いた。どうしても、そうしたかったから。
柔らかい肌。どうしてだろう。同じ人間なのに、妻の身体はどうしてこうも柔らかくしなって、まるで骨がないかのように感じられるのだろう。この腕につよく力をこめたらそれだけで消えてしまいそうだと、不安に駆られるほどに。
しばらく、そのままで抱き合っていた。やがて、どちらからともなく、私たちは身を離した。
歯を磨いてくる、と言って、妻は立ち上がった。出て行く前に、「でも、あなたは義兄と同じじゃないの」と妻はぽつりと言った。
「違うの。私にとって、あなたはもっと―――」
「・・・・・・・・」
「義兄と近く感じるのは、あなたじゃなくて、むしろ―――」
何かを言いかけた後で、妻は混乱したように頸を振って、しずかに部屋を出て行った。
私はどさりとベッドに背中から倒れた。
今夜語られた妻の言葉を考えた。
彼女は何を言おうとしたのだろう。
初めて知った義兄と妻の関係。
妻ははっきりしたことは語らなかった。ただ、義兄に支配されていたと言った。
支配。
義兄が亡くなるまで、ずっと―――
はっきりしたことを語らなかった、或いは語れなかったことが、先程の「そして」のつづきを暗示しているような気がした。
新婚当時、すでに妻は処女ではなかった。もう年齢も30に届こうとしていたし、私はその事実をしごく当然のことだと考えていたのだが、そこには「当然」ではない関係が潜んでいたのかもしれない。
妻が現在、叔父夫妻と疎遠なのも、その「当然」でない事情が絡んでいるのかもしれない。
どうして妻はそんな、出来るならば隠しつづけていたかっただろう過去のことを、今夜打ち明ける気になったのだろう。
―――同じです。
先程の妻の言葉が頭に反復した。
そしてもうひとつ、妻が最後に語りかけてやめた言葉。
―――義兄と近く感じるのは、あなたじゃなくて、むしろ―――
むしろ―――赤嶺だと言いたかったのだろうか。
妻は義兄と赤嶺をだぶらせているのだろうか。
彼女にとって―――おそらくは―――初めての男であり、その後の人生の長い期間「支配」されていたというその義兄。
義兄という存在が自身に対して意味していたものに対して、妻は「今でも分からない」と言ったが、本当のところどうだったのか。
そこにはっきりと上下関係があったにせよ、時に酷い振る舞いをされたにせよ、妻は義兄のことを愛していたのではなかったか。たとえ自分でもはっきりとした自覚がなかったとしても。
幼い頃から、ただひとり、彼女のことを「他の誰よりも知っていた」男のことを。
同じです、と妻は言った。私と同じように心に闇を抱えているのだ、とその言葉は語っていたのかもしれない。
妻の闇。その闇は義兄の幻影を通して、赤嶺と結びついているのだろうか。
私は立ち上がり、寝室の明かりを消した。横たわって目を瞑り、闇に―――本物の闇に身を任せた。妻の足音が近づいてくるのを、漆黒の中で聞いた。
---続く---